今日はみなさんの卒業にあたって、小川町の近くの東松山市、都幾川のほとりにある小さな美術館のお話をします。
その美術館は「 原爆の図丸木美術館 」です。
画家の丸木位里さんと丸木俊さんご夫妻が共同で制作した「原爆の図」を展示するために開いた小さな美術館です。一昨年50周年を迎えたそうです。
画家同士の二人が結婚したのは1941年7月、アジア太平洋戦争開戦の半年前でした。その後、戦況がしだいに厳しくなり南浦和に疎開しているとき、広島に新型爆弾が落ちたことを知ります。広島出身の位里さんはすぐに広島に向かい、原爆が投下されてから3日後の8月9日に到着します。やがて俊さんも駆けつけ、二人はしばらくの間広島で過ごしたそうです。
敗戦から3年の1948年、二人は「 原爆を描こう 」と決意しました。それから 34年かけて「 原爆の図 」十五部作を描き上げていくのです。
これがその絵の一部です。実際はかなり大きな作品で、縦1.8m × 横7.2m 屏風8枚が1つの作品です。
「 人間の痛みを描く 」というこの原爆の図、どの作品にもたくさんの人間が描かれています。ある作品では焼けて剥けた肌を引きずりさまよっているような人々、炎に焼かれてもだえ苦しむ人々や、多くの屍の山としての人々も描かれています。この「人間の痛み」に向き合い続けた丸木夫妻は、原爆の図だけでなく、南京、水俣、アウシュビッツ、沖縄などの絵を、その生涯をかけて描き続けました。
丸木夫妻が自らの「痛みへの想像力」を広げ深めて描いた作品の前に立つとき、私たち自身も「痛みへの想像力」をもって受けとめようとします。映像や写真、文章とまた違った形で胸に迫ってくるものを感じた人は少なからずいるのではないでしょうか。
この他者の「痛みへの想像力」、今を生きる私たちにとって最も重要な「ちから」の1つだと私は思っています。
丸木美術館で長年学芸員をされている岡村幸宣さんはその著書の中で「痛みへの想像力」について次のように綴っています。
「戦争だけでなく、かたちを変えた暴力は、いつの時代も存在します。公害や原発事故、貧困、差別、偏見…。私たちの社会は、そんな構造的な暴力の上に成り立っていると言えるでしょう。人は誰でも、自分の痛みには敏感になります。けれども他人の痛みを感じることは難しく、遠い国の人の苦しみは、忘れてしまうこともあります。だからこそ、最も弱い立場の人の痛みに、想像力を広げる必要があるのだろう、とも思います。」
現在、日本においても世界においても「自分さえよければいい」「自分の国さえよければいい」とする、利己主義、自国中心主義(自国第一主義)の風潮が広がっていると言っていいでしょう。
これは決して他人事ではありません。
全国の公立小中学校の保護者を対象に調査したところ、「経済的に豊かな家庭の子どもほど、よりよい教育を受けられるのは『当然だ』『やむをえない』と答えた人は62.3%に達した」との報道がありました。6割以上の人がこうした教育格差を容認しているとのことです。
世界を見渡しても、自国第一主義が台頭し、人権や民主主義、国際協調といった言葉が後回しにされているように思います。社会そして世界において「分断」が進んでいると言ってもいいかもしれません。
創立者の遠藤豊さんは生徒を目の前にして「自由の森学園の教育とは、自由と自立への意志を持ち、人間らしい人間として育つことを助ける教育」だと語っていました。
この「人間らしい人間」とは「痛みへの想像力」を持ち続けようとする人だと私は思っています。人間は他者の「痛みへの想像力」をもっているからこそ、人と人が支え合ったり助け合ったりしながら社会をつくってきたのだと思うからです。
丸木美術館の岡村さんはこのようにも綴っています。
「真の現実を覆い隠そうとする『現実』の皮を引き剥がし、一見変わらない光景に潜む取り返しのつかない変化を暴き出す想像力こそ、私たちに必要とされているのかもしれません」
「痛みへの想像力」は「見えないものをみようとする力」「真実を見抜く力」へとつながっていくのだと私も思っています。
さあ、いよいよ卒業です。
今日、みなさんはこの自由の森学園から旅立ち、それぞれの道を進んでいくことになります。思い通りにいかないことや、困難なことにも出会うことがあるかもしれません。そんなときにも「 痛みへの想像力 」を持つ人間の可能性を信じ、また、自らも「 人間らしい人間 」としてあり続けるために学ぶことを続けていってほしいと思っています。
卒業おめでとう。みなさんの健闘を祈ります。
自由の森学園高等学校 校長 新井達也